所在地:阿智村浪合治部坂(蛇峠山山麓)
治部坂遺跡は今から約一万五千年前頃、旧石器時代(後期)のものだとされています。旧石器時代後期は、先土器時代、先縄文時代とも呼ばれ、縄文時代以前で、今から約三万年~一万三千年前と考えられています。
治部坂遺跡は昭和三十二年頃から発掘調査が始められ、昭和三十五年八月には下伊那教育委員会を母体とした「治部坂遺跡調査団」が結成され発掘調査が行われました。
この発掘調査により採取された遺跡の研究結果から、治部坂遺跡は旧石器時代の遺跡であることが明らかにされたのです。
旧石器時代の人々の暮らしは、
①小集団からなる共同体を持っている
②石器を主な道具にしている
③狩猟と採集を営んでいる
などの特徴を持ち、原始的な共同生活を営んでいたと考えられます。
治部坂遺跡からは発掘によって、
●ナイフ型土器・・・・・・・・黒曜石製・硅質岩製[切る・削る・剥ぐ・突刺す]
●グレイバー(彫刻器)・・黒曜石製・硅質岩製[彫る・刻む]
●ポイント(尖頭器)・・・・・黒曜石製・硅質岩製[突刺す・切る]
●スクレイパー(掻器)・・・黒曜石製 [掻く・剥ぐ・削る]
●ブレイド(石刃)・・・・・・・・黒曜石製・硅質岩製[切る・削る・石器素材]
●コアー(石核)・・・・・・・・・黒曜石 ・硅質岩 [石器素材・採取後の母岩]
など、各種の石器や剥片が採集されました。
尹良親王(ゆきよししんのう)
尹良親王に関する文献の一つに大龍寺(愛知県津島市)に残された 「浪合記」があります。この「浪合記」によると。尹良(ゆきよし)親王は後醍醐天皇の第八皇子宗良(むねなが)親王の皇子で、御母は飯谷城(現・静岡県引佐郡引佐町)城主・井伊介道政の娘であり、延元元年(1336年)和州吉野(現・奈良県吉野郡吉野町)にて御元服の後に正二位中納言一品征夷大将軍兼右大将兵部卿親王になられ、元中三年(1386年)八月八日に「源」の姓を受けられた、とあります。
尹良親王が生きた時代は南北朝時代(1336~1392年)と呼ばれ、朝廷が南朝(吉野・後醍醐天皇)と北朝(京都・足利尊氏)に別れ対立していた時代で、尹良親王は南朝勢力の挽回に力を注いでいました。
その後南朝と北朝が統一し、室町時代に入った応永四年(1397年)、尹良親王は吉野から上野国(こうずけのくに 現・群馬県)にお住まいを移されることになります。北朝軍の攻撃を受けたものの大勢の徒臣に守られた親王は、応永五年(1398年)八月十三日、世良田大炊助政義と桃井右京亮宗綱の迎える上野国寺尾の城にお移りになられました。
しかし相次ぐ戦いで味方を失い、いよいよ身の危険をお感じになった親王は、応永三十一年(1424年)世良田大炊助政義をはじめとする多くの従臣に守られながら上野国を離れ、四月7日には信州諏訪の千野六郎頼憲の城に入られます。
そして同年八月十日千野の城を後にし三河国(現・愛知県)へ向かわれました。
八月十三日には飯田を訪れる為に杖突き嶺(杖突峠)を超え、十五日には飯田より三州に向かう、と「浪合記」には記されています。
「同十五日飯田より三州に向ふ。大野村より風雨猶烈しく、十方闇夜に同じ。野伏、又俄に起来て駒場小次郎、飯田太郎と名乗りて尹良親王を襲奉る。斯て下野入道宗徹、世良田次郎義秋、羽川安蕓守景庸、同安房守景国、一宮伊豫守、酒井七郎兵衛貞忠、同六郎貞信、熊谷弥三直近、大庭治部太輔景郷、
尹良親王御墓
所在地:阿智村浪合宮の原
管 轄:宮内庁(明治14年2月14日より)
浪合の古戦場といわれる宮の原の北東部。山の麓にある小さな丘は「尹良親王の御首を埋め奉った場所」と伝えられ、御墓が築かれています。
長い間忘れられていた御墓も、江戸時代に国史の研究が盛んになると浪合胤久や後藤基命など浪合村の人によって宮内庁の公認が願われましたが、この時には御墓の公認は実現しませんでした。
それから後の明治13年6月、明治天皇御巡幸の供奉を仰せつかり飯田町を訪れていた内務少輔品川弥二郎を、増田平八郎を代表とする村人が関係資料を持って訪ね、尹良親王御陵墓の公認について協力を願いました。しかし、このときも要請は受付られず、増田たちは現豊丘村伴野に住む女流勤皇家・松尾多勢子にその斡旋を依頼することとなりました。松尾の働きかけによって、品川の報告を受けた明治天皇はすぐに侍徒・西四辻公業を勅使として浪合村に派遣し、尹良親王の御事蹟の調査を命じました。
その結果、明治14年2月14日に尹良親王御墓は正式に後醍醐天皇皇孫尹良親王御墓と認められ、以来宮内庁の管轄下に置かれることとなりました。
尹良親王陪塚(ゆきよししんのうばいちょう)
所在地:阿智村浪合宮の原
管 轄:宮内庁(明治14年2月14日より)
尹良親王御墓の近くに三堆の小塚(杜)があります。これを陪塚といい親王に殉じて討死した戦死者を埋葬した場所と伝えられ、通称千人塚と呼ばれています。
●陪塚い号
い号の上には、
「正面」大光院殿(世良田大炊助政義の法名)
「左側」世良田政義先霊
「右側」寛政七卯暁春日
「裏側」堯翁十二世松山建之